2017年7月27日木曜日

フォーク・サイコロジーにつけこんだ“印象操作”

 『産経新聞』の「歴史戦」連載がはらむ問題点のうち、先日刊行された『検証 産経新聞報道』所収の拙稿でとりあげなかったものについて、ここで指摘しておきたいと思います。対象となるのは、ウェブ版「産経ニュース」では2014年5月25日に掲載された【歴史戦 第2部 慰安婦問題の原点(5)前半】「「日本だけが悪」 周到な演出…平成4年「アジア連帯会議」です。この記事に対して「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」と「第12回アジア連帯会議実行委員会」が産経新聞社に抗議した件については、『検証 産経新聞報道』および「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」のホームページをご参照下さい。

 前記記事には、フリージャーナリスト舘雅子氏の話として、次のような記述があります。

 この会議に参加した舘は会場で迷い、ドアの開いていたある小さな部屋に足を踏み入れてしまった。  そこでは、韓国の伝統衣装、チマ・チョゴリを着た4〜5人の元慰安婦女性が1人ずつ立って、活動家とみられる日本人女性や韓国人女性の言葉を「オウム返し」に繰り返していた。  「元慰安婦に(シナリオ通りに)言わせるのは大変なのよね」  日本からの参加者がこう話すのを耳にしていた舘は、あの部屋で見たのは「元慰安婦女性たちの振り付けだ」と確信した。


『検証 産経新聞報道』でも指摘したような事情から、『産経』はこの部分に関する舘氏の“証言”の真実性・真実相当性について自信をもっていないことが伺えるのですが、ここではあえて外形的な事実としてはこの記事通りのことがあったと仮定して話を進めます。

 まず最初に指摘できるのは、「日本からの参加者」が口にしたのは「元慰安婦に言わせるのは大変なのよね」であって、「(シナリオ通りに)」は舘氏ないしは「歴史戦」取材班の推測に基づく補足にすぎない、という点です。日本からの参加者」が言わんとしたのが(シナリオ通りに)」であった、と断定する根拠はありません。「(以前の証言通りに)」や「(筋道立てて)」などを補足しても、文脈上は十分に意味が通ります。

 それはそれとして、元「慰安婦」被害者が証言の“練習”をしていたとするならば、彼女たちの証言の信憑性に影響するのではないか? と思う方は少なくないと思います。『産経』の狙いはまさにそのような印象をあたえることにあると言ってよいでしょう。

 しかしながら、これは人間のこころのはたらきに関する科学以前の“常識”(フォーク・サイコロジー)がはらむ誤りを利用した“印象操作”に過ぎません。

 まず第一に、過去の経験を想起するというプロセスは“録画しておいたビデオを再生する”ようなものではありません。HDDレコーダーなら、きちんと録画できた番組はスムーズに再生できますが、人間の記憶の場合にはそうはいきません。まして、その体験がトラウマ的なものであり、かつ社会的偏見の対象ともなる性暴力の被害経験ならなおさらです。

 第二に、人間というのはキャッチボールのように言葉をかわしながらコミュニケーションを行う動物ではあっても、見知らぬ聴衆を前に一方的に喋るようにできている動物ではない、ということです。何十人、何百人もの見知らぬ聴衆が黙ってこちらを注視してるなかで十数分、あるは数十分にわたって整然と喋り続けるなどということは、ある程度場数を踏んだ人間にしかできないことです。しかしフォーク・サイコロジーは「よく覚えている事柄なら、すらすら喋れるはずだ」「しどろもどろな証言者の証言は、信用できない」と私たちに思わせるわけです。

 実は日本の刑事裁判では、このような問題に対処するためのしくみがあります。刑事訴訟法の下位にあって刑事裁判の細目を定めている刑事訴訟規則には、つぎのような定めがあります。

第百九十一条の三 証人の尋問を請求した検察官又は弁護人は、証人その他の関係者に事実を確かめる等の方法によつて、適切な尋問をすることができるように準備しなければならない。

「準備することができる」ではありません。「準備しなければならない」とされているのです。これは報道等では「証人テスト」と呼ばれています。法廷で過去の体験について証言せよ、といきなり要求されれば多くの人間がしどろもどろになってしまうという現実を踏まえて、審理をスムーズに進行させるための規定です。なお、「誘導尋問」といえばやってはならないものと思われるかもしれませんが、刑事訴訟規則は「証人の記憶が明らかでない事項についてその記憶を喚起するため必要があるとき」には、主尋問においても誘導尋問をすることができるとしています(第百九十九条の三 三項三号)。

 もちろん、この「証人テスト」が証言者の記憶を歪めてしまう可能性は存在しています。例えば、2010年に宮城県で発生した殺人・傷害事件の裁判員裁判(判決=死刑)では、検察が共犯者に証言内容を指示した疑いが報じられたことがあります。鈴木宗男・元衆議院議員の汚職事件の裁判でも、証人テストの際に検事が証人に証言内容を指示したのではないかという疑惑が報じられました。ただし、鈴木貴子衆議院議員の質問主意書に対して、安倍内閣は2014年3月7日に、過去の事例を含めて検察の証人テストについて「検証をする必要はない」と閣議決定しています! なにしろあの安倍内閣が閣議決定したのですから、これほど確かなことはないでしょう!

 閣議決定云々はおくとしても、『朝日新聞』のデータベース「聞蔵II」で検索可能な期間に「証人テスト」をめぐる疑惑を報じた記事は19本だけ。同じ事件について複数の記事が書かれていることを考えると、暗数は考慮する必要があるにせよそうたびたび問題が起きているわけでないことがわかります。

 証言聴取者が最初から「シナリオ」を有しておりそれを証言者に押しつけるのは論外として、証言者の過去の証言を参照しながら記憶を喚起し、証言内容を整理することは一般には*不当なことではなく、そのような記憶喚起は刑事裁判の実務では当たり前に行われている以上、日本軍「慰安婦」問題についてのみ否定されねばならない理由はありません。『産経』の上記記事は不当な誘導が行われたとする根拠をまったく示せていませんから、仮に舘氏が目撃した事実(舘氏の解釈を排除した外形的事実)がこの記事通りだったとしても、元「慰安婦」被害者の証言を否定する根拠にはならないのです。

* もちろん、証言者の当初の証言が何らかの理由で事実から乖離していた場合、証言聴取者が過去の証言との整合性を要求することが結果として事実に反する証言を誘導してしまう、といった可能性はあります。