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3・28集会(「慰安婦問題」にどう向き合うか)に参加して

 管見の限りでは『ハンギョレ新聞』の日本語版サイトでしか報じられていないようですが、去る3月28日に東京大学駒場キャンパスで「『慰安婦問題』にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」と題する集会が行なわれ(参加は事前登録制)、私も一参加者として議論に立ち会ってきました。集会で行なわれた議論の詳細を公表すること(するかしないかの決定も含めて)は主催者に委ねることとし、ここでは『帝国の慰安婦』に批判的な立場で参加した私の思ったところを書いておくことにしたいと思います。

 これまで『帝国の慰安婦』に関しては事実誤認、先行研究の誤解や無視、史料(資料)の不適切な扱いといった問題点が多数指摘されてきたわけですが、それらについて「いや、朴裕河氏の……という事実認識は正しい」「これこの通り、先行研究はきちんと踏まえられている」「その資料はきちんと文脈を踏まえて引用されている」というかたちでの具体的な反論は一切なかったと言ってよい、と思います(文末に注を追記)。西成彦氏、岩崎稔氏らの発表は、これらの瑕疵について曖昧に(「脇の甘いところがあるのは確か」といった表現で)認めたうえで、そうした瑕疵にもかかわらず『帝国の慰安婦』が持ちうる価値について語ろうとするものだったということになります。例えば西氏は「馬跳びの馬」という喩えを用いて、『帝国の慰安婦』を「跨ぎ越え、そして出来る限り遠くまで飛んでみせるのが研究のあるべき姿」だと主張していました。しかしながら、手を着けばバラバラになってしまうようなものは「馬跳びの馬」足りえません。下手に飛べば怪我をするだけです。「研究のあるべき姿」とはまずもって「先行研究」、この場合は『帝国の慰安婦』が「馬跳びの馬」足りうるものであるのかどうかを検証し、その検証結果を広く市民に伝えることなのではないでしょうか?

 もちろん、いかなる瑕疵もない先行研究などたとえあったとしてもごく稀でしょう。しかし『帝国の慰安婦』にかけられている嫌疑とは (1)その中心的な主張の論拠について、(2)とうてい軽微とはいえない深刻さの誤りが (3)少なからず存在している、というものなのです。28日に話題にならなかった――そして鄭栄桓氏による『帝国の慰安婦』批判の新刊『忘却のための「和解」』(世織書房、2016年3月)でもとりあげられていないケースをここで例にあげておきま…