2015年3月5日木曜日

1991年のある投書

 1991年の7月30日、すなわち植村隆氏による金学順さんに関する最初の記事が掲載されるわずか10日前ほどの『朝日新聞』(大阪本社)朝刊の「女たちの太平洋戦争」欄に、次のような投書が掲載されていた。投書の主の氏名は伏せるが当時74歳の在日コリアン男性である。
 本欄によれば「大阪M遊郭から来た慰安婦もいたから、金に買われた女性も多い」とあったが、彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない。年配の方なら彼女たちの境遇は理解出来ると思う。ちなみに朝鮮人の娘たちは強制連行である。    どちらにしても、この女性たちは日本軍のなぶりものにされ、慰安婦という不浄なレッテルを張られたまま使い捨てにされ、その後の詳しい消息は今も不明のようである。かろうじて生き延びた女性が今は老女となり、日本国に何人かいると聞くが、この老女たちは過去の忌まわしい出来事を語ろうとはしない。   (中略)
  時には日本人から「侵略も悪いが、侵略された国にも責任がある」と言われることがある。なるほどと思う。   たとえ朝鮮民族が討ち死にして滅亡しても、日本の侵略に立ち向かって国家を守るべきだった。  (後略)
下線は引用者。
 この投書が興味を引く理由はいくつかある。一つは、こんにち日本の右派の一部(その代表格は中山成彬元衆院議員)が日本軍「慰安婦」問題に関して主張すること、すなわち「もし本当に多数の朝鮮人女性が強制連行されていたというのなら、なぜ朝鮮人(男性)は抵抗しなかったのか?」と似たようなことを在日コリアンに向かって言う日本人が当時もいたのだな、ということがうかがえる、という点。この論理は、「後になって『勝者の裁き』だの『押しつけ憲法』などと文句を言うのであれば、本土決戦で一億玉砕しておけばよかったのに」という具合に右派に跳ね返ってくるのであるが。
 しかし私がこの投書をとりあげた一番の理由は、当時74歳だった−−ということは1910年代生まれの−男性が、この10日ほど後に掲載される記事に加えられる非難にあらかじめ反論していた、という点にある。「彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない」。これさえわかっていれば、金学順さんが「キーセン学校」に通っていた経歴などまったく記事にするに値しないことが了解できるだろう。
 なおこの男性が「朝鮮人の娘たちは強制連行」されたと書いているからといって、吉田清次“証言”にみられるような連行形態を思い浮かべていたとは限らない、ということにも注意が必要である。90年、91年当時の朝鮮人強制連行に関する『朝日新聞』の記事では、強制連行が「募集」「官あっせん」「徴用」とさまざまな方法で行われたことが記されていることが度々あり、かつ「村人から何人出せ」と地域共同体に圧力をかける方式や、出稼ぎで来日し土木現場を転々としているところへ「役場(市役所)から呼び出しがあった」というケース、さらには「おれたちも白い米を食おう」と言い残して日本に渡ったケースなどまで含めて「強制連行」の被害者として扱っている。
 また、「挺身隊」についても同様で、「パラオ挺身隊」として戦闘に参加した人々が集められた経緯を「挺身隊は43年ごろ、日本軍が公募。志願した29人がパプアニューギニアへ行き」としている例がある。この当時の『朝日新聞』読者なら、「(強制)連行」「挺身隊」という単語から直ちに吉田清次的な“人狩り”を想起するわけではない、ということがうかがえるだろう。